モリワキエンジニアリング

デビューは2003年 開幕戦・地元鈴鹿サーキット

■MotoGPのあゆみ

デビューは2003年 開幕戦・地元鈴鹿サーキット

シェイクダウンテストが終わってMD211VFは、すぐに1号機の改修と2号機の製作が行われた。実戦を睨み、軽量化も進められ、シートレールはチタン製となった。しかしこのとき既に森脇の頭の中には3号機4号機の青写真まであったという。
とにかく試してみたいアイデアが溢れてくるのだった。

2003″SKYY VODKA”Grand Prix of JAPAN:#25 芹沢太麻樹車

ついにデビューの日が来た。2003年4月6日の世界グランプリ開幕戦・鈴鹿。

当初MD211VFのワイルドカード枠での参戦は無理だということだった。DORNAの公式見解は「2005年まで契約したチーム以外の出場は受け付けない」というものだった。期待していたワイルドカードの出場も、鈴鹿に限り、他メーカーとのバランスで事実上断念しなければならなかったのだ。しかしそう言っていたDORNAが「しかし我々はモリワキの参加を歓迎する」と言い出したのである。それほどモリワキMD211VFはMotoGPに歓迎されていた。新しいレギュレーションの中でプライベートチームが参加するためには、モリワキのようなコンストラクターの登場は大きな望みとなったのだ。それも森脇の目指していたことの一つだった。

急転直下、鈴鹿の参戦が決まったのは、ヤマハR1のエンジンをベースにクランクケースを削り出しで作成、フレームをハリスが作ってMotoGPに参戦を計画していたWCMのお陰だった。マシンを1台しか用意できなかったこの開幕戦のみ、モリワキにチーム枠を急遽提供してくれたのだ。

ライダーには元ヨシムラ、そしてカワサキワークスを経験した芹沢太麻樹が起用された。今までの鈴鹿テストで芹沢が出していたタイムは2分9秒台。それが公式予選1日目、初日に、8秒台をマークする。そして翌日の公式予選2日目、31日の午前の走行では一気に6秒台が出た。このスピードはモリワキにとって未知の世界だった。フリー走行、予選と、荒れる天候の中でセッティングデータが出される。

しかし初めてのウェット路面で16位となかなかのタイムを出した芹沢の走りを見ても、「全部造り直しやな」と森脇はつぶやいた。今回のMD211VFは2号機である。基本的に1号機のままで軽量化したもの。もてぎでのテスト結果を反映しながら,処女作1号機の方向性は間違っていなかった。しかしこの日の走りを見て,森脇は重大な問題点を発見したのだった。

MotoGP鈴鹿のピットには多くのゲストが現れた。河島喜好HONDA二代目社長、池ノ谷HONDA取締役、吉村不二雄さん、母直江さんを初めとする吉村・森脇ファミリーの面々が激励に訪れた。華やかな応援の中,芹沢は走り切った。2003年MotoGP第1戦,予選16位,決勝19位。122.304kmを走ってトップとの差1分35秒459。これがモリワキのGPデビューの結果であった。